重松神社と日神社のホームページ

大成家奉仕の由来

 現在日神社の神主を勤めているのは木谷の大成家ですので、なぜ蒲刈・大浦から離れているところからわざわざ神主が来ているのかといった疑問をもたれるのは当然のことです。この経緯については次のようなお話があります。

 

 昔(1640年頃か?)、大浦の田畑に毎年数千もの地ねずみ(虫とも)が発生して穀類、その他の作物に大きな被害を与えていた。そのたびごとに神社で豊穣の祈祷を行ってきたのであるが、あまり効果がなかった。村で協議をして賀茂郡広村神主を始め、仁方村、川尻村、三津口村等、年ごとに順次に神主に依頼して、祈願を10数年にわたって行なってきた。

 

 しかし、地ねずみはいっこうに退散せず、大浦村の人々は残念に思い、悲しんでばかりであったが、1654年頃に大成家7代の越前守・影正(かげまさ)が、この大任の委嘱を受けることとなった。影正は至誠もって祈願を奉仕し、春日大明神のご神体が地中に埋没していることをみくじ詰めにより言い当てた。ただちにご神体を発掘し、呉田に一つの神祠を造営し、掘り出した春日大明神のご神体をここに奉祭した。すると、長年にわたって被害をもたらしていた地ねずみは海中に逃走し、以後毎年穀物が豊かに稔ることとなった。

 

 そして、この功により奉行・西尾弥五左衛門(この頃の実在の人物)は、大浦村の神社全部を大成影正に奉仕させることとした。

 

 当時神主であることを正式に認められるには、京都の吉田家が発行する神道裁許状が必要でした。この神道裁許状には、官名や奉仕神社の場所と神社名などが書かれています。大成影正1652年に神道裁許状をいただいていますが、大浦の八幡宮(=日神社)の神主を命ぜられたのは裁許状を取得した後のことですので、大浦の八幡宮については神道裁許状には書かれていません。
 次の8代・大成景次からは、神道裁許状に大浦の八幡宮は記載されることとなります。ちなみに、大成景次の神道裁許状は、寛文8年(1668)に発行されました。この裁許状には「大浦八幡宮」と書かれていますが、当時、日神社が「大浦八幡宮」と呼ばれていたという意味ではありません。「大浦にある八幡宮」という意味で記載されており、現在の日神社のことです。日神社は明治頃までは「日庄八幡宮」といっていたように八幡宮です。

 

8代神主・大成豊前掾景次の神道裁許状【1668年発行:大成家蔵】

あんきゅうさん

 

日神社の拝殿には、16代・大成景幹の肖像画と17代・大成俊行の写真が飾られています。16代・大成景幹は私(18代)の祖父にあたりますが、この16代・景幹の祖父は大浦から養子に来ています。7代・大成影正から築いてきた大浦との関係は、16代・大成景幹でさらに深くなったと言えるでしょう。

 

 ちなみに、16代・大成景幹は「ひげの神主」として知られていましたが、お酒が好きなことでも知られていました。お猪口に日本酒をつがれると「あ〜ん」と口を開け、「きゅっ」と一口で飲んでいたそうです。そのため、景幹のことを「あんきゅう」と呼んでいました。晩年は、お酒にお湯を混ぜたり、白湯を飲ませたりと周りの人は気を使ったようですが、それでも酒を楽しんでいたそうです。

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